東日本の最西端にて
3月11日は年に2回の恒例春の検査で病院にいた。看護士さんから「先生がいらっしゃるまで横になって待っていてくださ~い」と処置室のベッドに案内されて、いざ横になろうと靴を脱いでいたところに、ゆらゆらと地震がきた。長野はあまり地震がないので珍しい。天井から吊された点滴パックを引っかける重そうな鉄の棒が危なげにゆらゆら揺れて、それがとても長く続いて、ただならない空気が漂ったので靴を履いて逃げる準備をした。
3分くらいで揺れが止まり、ホッとした看護士さん達が「びっくりしたねー」とか「目眩かと思ったよー」とか軽く言葉を交わして通常業務に戻っていた。廊下ではものものしく放送が流れていた。そのうち口伝いで「宮城で震度7だって」と情報が入ってきた。震度7?
検査が終了して病院のロビーに行ったら、テレビの前に人だかりができていて、皆神妙な面持ちで報道に見入っていた。ヘリコプターからの映像で、広範囲に渡る田畑を津波が内陸に向かって押し寄せている。その先には道路があって車が走っていたり立ち往生していたり。少し高くなった道路に止まった大型トラックの周りには運転手らしき人がいて、慌てている様子もなく押し寄せる津波を見物しているようにも見えるけれど・・・
東北が大変なことになってしまっているらしい。
家に戻ってテレビを付けた。
上空からの津波の押し寄せる映像、燃えている石油タンク、家が流れて橋の欄干に激突している。何台もの車が滝壺に落ちたみたいに黒いしぶきとともにぐるぐる回転している。全部が流れている。
横浜ではビルから飛び出して来た人の脇をガラスや看板が落下している・・・
涙が出てくる。
500kmにも渡ってこうなっているんなら、日本はどうなってしまうんだろう。
東京に住む弟妹に電話をしてみたけれど、繋がらなかった。
1ヵ月過ぎて、いろいろあって災害は未だ現在進行形だけれど、幸いなことに自分の住む町は放射線もあまり検知されないし、強い地震も来ていないから、生活は大きく変わっていない。節電を意識するようになったり、食品の産地をよくよく見るようになったことくらい。
デザイン会社に勤める夫の仕事にはすぐに影響が出て、悔しそうにしていた。浮き草稼業でやっている私のデザインの仕事も、全く来なくなるんじゃなかろうかと漠然と思っている。
新聞には毎日、「あのときまで」「14時46分から」「あのときから」と段落を区切って被災した方々の凄惨な30分間の証言が掲載されていて、読んでいると思わず涙がこみ上げてくるけれど、私のこんな涙は薄っぺらいものなのだと思う。新聞やテレビで傍観しているだけではやはり遠い。
自分にもいつかこんな災いが降りかかってくるかもしれない。原発問題に関してはすぐその辺にまで来ているかもしれない。
自分はその時咄嗟にどう行動するのか。
実際3.11には病院にいた。処置室には他にも検査の処置を待つ患者さんや点滴をしているお年寄りなど何人かいた。自分はぴんぴんしているのだから、動けない患者さんの避難を手伝うのだろうか。看護士さんに促されて患者として避難するのだろうか。それとも無情にも1階の部屋だから自分だけ勝手に窓から脱出するのだろうか。
何者として行動するのか。
妻として、娘として、友として、デザインを生業としている者として、お隣さんとして、地域の住民として、長野県民として、日本人として、地球人として・・・はないか。人間として。
その時何を選ぶかで真逆の方向に逃げることになるかもしれないし、真逆の行動をとっているかもしれない。
誰かには「ありがとう」と言われても誰かには「なんでそんことをした」と怒られるかもしれない。
そんなことはそれぞれのことだ。
その時が来なければわからない。
結果も一つではない。
敗戦後30年かかって日本は焼け野原から復興したけれど、バブルが弾けた後は20年経っても景気は良くならなかった。これから日本はどこに向かっているのかわからないけれど、途方もないことになりそうであるということは確かだと思う。
私が日本人として今するべきこと。先ずは今、自分ができることをして、復興の足しになること。
志賀高原で滑る
志賀高原でスキー。これまでの人生で2回か3回くらいの記憶しかないし、最後に熊ノ湯で滑った記憶が20年くらい前かもしれない。それにしても、20年くらい前が子供でなかったというのがなんか・・・
ここ何年も専ら「山田牧場」と北志賀の「よませ」という二つのスキー場を交互にテロテロと滑るばかりで、山田牧場の写真も毎年毎年同じような写真ばかりがたまるばかり。
それで予てから冬の志賀高原の上の方はどうなっているのかと興味があったので、おもいきって高いリフト券代を払って志賀高原のスキー場に行くことになった。
できるだけ高いところということで横手山に朝一で行った。紅葉シーズンなどは観光客で恐ろしく混んでいるところ。混雑がイヤだから行ったことがなかった。
リフトを乗り継いで頂上に向かう。
やたらと時間がかかったが、リフトからの景色は山田牧場の箱庭的なかわいらしい森の風景と違い、もうデーーン!としたいかにもおやじ好きのする壮大な森の風景だった。
リフトもやたらと高い位置を行く。壮大な森の上空を生身でぶら下がっている感じがする。頂上からの凍てついた風がビュービュー吹き下ろしてきて凍るように寒い。
道路の上を行くゾーンもあり、下に網が張ってあるエリアなど「もしここで落ちたら‥‥恥ずかしい!!」などといろいろ妄想できて更に恐怖心がかきたてられる。
リフトのとなりに乗っているツレは、大はしゃぎでリュックからカメラを取り出しておやじショットを撮りまくっている。
そうやって天空の生身のリフト上で、リュックから物を出し入れしたりなどゴソゴソ動き回っているのを見ているだけでも怖い。しかも壮大な眺望の景色を見たいと思って横を向いたところで夫が障害物となって何も見えないではないか。
怖いからあまり動きたくなかったが、なんとか後ろを向いて振り向きざまにチラ見が精一杯。
横手山の頂上は背の低い杉林の杉が、もうちょっとでスノーモンスターという体で立ち並んでいる。というか背の低い杉ではなくて、実際は雪が積もって頭の方だけ出ているのかもしれない。
渋峠エリアへの連絡通路はその頭の出た杉林の間を抜けて行く。もっとしっかり雪が降った翌日に来たかった。
渋峠と横手山でしばらく滑っていたのだけれど、自分達の体力と技量に丁度良いゲレンデがあまりなく午後は違うスキー場に車で移動しようということになった。ゲレンデマップで見たところ最も広そうな焼額山に行くことにした。
スキー場のハシゴだなんていかにも志賀高原という感じでちょっと遊び人になったような気分になる。
ゴンドラに乗って頂上まで登り、一気に下まで滑る。しかしながらいかんせん午後となってはもう体力が続かない。少しでもこぶができている斜面にぶちあたると足がヘロヘロになる。息切れがして長距離を滑り続けられない。今やもう一日中滑るというのは無理なのだね。
遊び人になったような錯覚をしていたが、リフト券代の元を取ろうなどとスキー場をハシゴして、更に足がヘロヘロになるまで滑るというのは遊び人ではないのではないか・・・
隔たりの基準をとりあえず世代間として
アカルイミライ
2003年/監督・脚本:黒沢清
自分は割と一般的な物の見方をする方だろうと思っていたけれど、それはそうかもしれないし、そうでもないかもしれない。
一般的であることとそうでないことの境界線、善と悪との境界線も極めて曖昧であることがわかる。
工場で働く危なげな青年の身の回りで起こって行く、価値観のズレによる不穏や犯罪。
不穏な空気と効果音が流れ、観ている自分は、物語がより一層闇に向かって行くだろう、辛い話になってしまうぞと、より暗い方向に向かっているとする。そこに不意に開放的な効果音が流れ、物語は自分とは真逆の方向に進んで行ってしまう。
一瞬置いて行かれる。
見る角度をそこで微調整する。流れに順応すると、その罪や死は許容される。晴れ晴れとした気分で観ている自分がいる。境界線などというものは無数にあるから正解などない。結局自分の位置をどこに置くかということ。
幾度か置いて行かれて、不思議な気持ちになった。
復活ということは暇ということ
昨年末は仕事に明け暮れた。クリスマスは深夜に夫と近所のラーメン屋でラーメンをすすり、大掃除はやらず、お正月のおせち料理もやらず、大晦日に徹夜で年賀状を作った。
仕事がある。このご時世それだけでありがたいが、年間のスケジュールの偏り方が尋常でないのがなんか・・その時々で心境も様々でバラエティーに富んだ暮らしぶりが微妙で・・。
玉虫色な暮らしぶり。
年末の掃除とおせち、何もやらんと開き直ると楽だ。
とはいうものの、何か年始に実家に納める物をと、なかなか簡単にできて豪華に見えるローストビーフを製造した。でもグレイビーソースは下ごしらえ以降、時間がなくて夫に作ってもらっている。
年明けて、仕事が落ち着いた頃に、伊達巻きも一応に作り、少しはお正月的な気分になった。
そして2月、我が身はフリーダム。
半年の間に山積みになってしまった物資と情報を片付けなければならない。昨年、半年かけてメモリー空き容量50%近くまで片付けたDVDレコーダーのHDD空き容量が、後半半年の間にまた残り5%に至る。
皆、観られないなら録らなきゃいいだろうと一様に云うけれど、魅力的なNHK-BS放送の誘惑と、好奇心と貧乏性いや貧乏と収集癖がある限り、やめられないんだ。
自分が死ぬまでに、こういう山積みを、全てを片付けられるんであろうか。
1日1本映画を観る。玉虫色な暮らしぶり。
霧ヶ峰高原にて不覚のTシャツ焼け
夏の霧ヶ峰高原を歩きに行く。車山肩から八島ヶ原湿原をグルッとまわって車山山頂に登って下りて3時間30分のコースを行ってみた。道草を食い過ぎる私たちは6時間かかって帰ってきたけれど・・・
霧ヶ峰高原は見慣れた志賀高原の景色とは全く違い、見渡す限りの草原と空、お花がそこここに咲き乱れ、ポコッと丸い丘に小道がツーッと通っていたりで、思わず駆け出したくなる。ような。
実際、調子に乗って山を駆け下りて止まらなくなっている中学生やトレイルランニングに励む人もいたし。
呉々も日焼けには気をつけようと入念に日焼け止めを塗っていったものの、念には念だと着けてみたアームカバーを暑いからと云ってはずしたり、カメラを出したりしまったりとリュックをズルズル着脱しているうちに、すっかり腕に塗ってあった日焼け止めクリームが剥げてしまった。そんなこともあろうかと持ってきていたはずの日焼け止めクリーム、車に忘れた・・・
ヒリヒリと、Tシャツの袖型、時計型もくっきりの、10代の頃のような黒光りを湛えた迂闊な腕となった。3日後にはペリペリと皮も剥げた。懐かしかった。
霧ヶ峰高原は、眺望良好のお弁当がしっかり食べられる好いところが数地点ある、ステキ山だった。
クマを泳がせに
久々にクマを連れ出す。今回はクマを泳がせる気満々で飯綱の霊仙寺湖に行く。
あまり暑くならないうちにと頑張って朝7時に家を出たものの、自宅から実家、そしてクマ散歩してからの車に乗っけてからの飯綱なので、結局到着が9時ですっかり暑い。やはり5時6時に家を出ないといけないらしい。
とりあえずドッグランで遊ばそうと放ってみた。ひとっ走りして速攻で日陰にへたり込んで動かなくなる。確かにこんなカンカン照りの中遊ぶのヤダかろう、暑かろう。
んではさっそく湖の方へ行きましょう。
何のためらいもなく湖に入って行く。夫はこの日のために、シュルシュルとどこまでも伸びるリードを用意していた。シュルシュルと水に入って行き、水面からちょこっと頭を出してうまいこと泳ぐ。かわいい。
『五月のミル』でザリガニ採りをするミッシェル・ピコリを思い出す。
しかし、できるだけ日陰を求めているのか、やたらと葦が密生しているところや水草がワヤワヤと生い茂っているところに突っ込んで行く。私は底の見えない海ですら得体がしれなく入るのが怖いので、あのような藻が足に絡み付くような環境に入って行くクマの気が知れない。
夏に野尻湖で犬と一緒に泳いでいるらしい豪快な友人がいるが、野尻湖はどうなんだろう。藻が足に絡み付かないのか。ブラックバスに襲われないのか。でもトライアスロンで泳いで渡ったり、水上スキーをやっているくらいの湖なのできっと普通のことなのだ。きっとフィンランドみたいな「素敵な水浴び」なのだ。友人と愛犬が泳いでいる様、とても興味深い。たぶんおもしろい。
それにしても、ずぶ濡れでヌルッとした真っ黒いクーちゃんが、藻の薄ぼんやりと透けて見える淀んだ湖を泳ぐ様は、『五月のミル』というよりも『地獄の黙示録』だった。
ある意味ドキュメンタリー
劔岳 点の記
2009年/監督:木村大作
明治39年、陸軍参謀本部陸地測量部によって日本地図は完成されつつあったが、あまりの険しさで未踏峰とされ、測量できていなかったという剱岳。この日本地図最後の空白地帯を埋めるために信念と勇気をもって困難な山岳測量に取り組んだ男たちを描いた壮大な物語。
が、これは物語というよりドキュメンタリーではないか。
公開当時、NHK FMのラジオ深夜便の番組に監督の木村大作氏が出演しており、声でかく興奮ぎみに熱きキャラを放出していた。あまりにも壮絶な撮影現場の話、可笑しかった。
もともと日本映画の数作品の撮影監督を手掛けるキャメラマンだったこの監督は、新人だった頃に黒沢明監督の映画にも参加し、“本物”を撮ることに執着しまくる現場を刷り込まれている。
“本物”を撮るために、俳優は本当に撮影現場に登って行く。快晴待ち、嵐待ち、季節待ち、雲海待ち・・・自然と山の状態が大優先でそれに合わせて俳優含むスタッフは、劔岳に呼び出される。そして登る。そのシーンを撮るために俳優は山際の雪がせり出した、雪の下に地面があんだかないんだかわからない所に立たされ、遠くからカメラを回す監督からもっと先まで行けと指示される。
壮絶な映画を撮るために、スタッフ一同も壮絶な時間を辿っている。
実際に本編を観たらば、あまりにも本物過ぎて実際壮絶であろう部分はもうサラッと、その壮絶な所はもうちょっとじっくり撮って感動を呼ぶシーンとなるのではないかと思うところはサラーッと過ぎる。或いは、いよいよクライマックスの壮絶なドラマがこれから!というところで「そこないんかい!」とか。
逆にそのドラマもへったくれもないところが“本物”を撮るがための壮絶さを思わせる。
私は完全にこの映画を撮っている現場のドキュメンタリーを観ている目線になっており、ああそうだね、そんな危険なところで俳優が格好つけて迫真の演技をしたり、緊張のどアップを撮影したりどころじゃないよね。などと優しさに溢れて見守ってしまう。
やはりカメラマンである監督、ドラマなんてどうでもよいのだろう。とにかく、この劔岳の壮大な画を記録したかったのだろう。この素晴らしい大自然の中に、佇まいも凛々しい浅野忠信や中村トオルが、点のようになって歩いている。ありえない美しさ・・・だから許せる。
観終わって、劔岳には決して登りたくないと思った。