ちょっと怖くていい山
昨年の8月には山田牧場の笠岳に登った。山田牧場には何回も行ったことがあるが、その頂上にある笠岳には一度も登ったことがなかった。夫は小学生の時に遠足で登ったという。小学生も登れるんであれば、軟弱な私にもきっと登れるはずだ。笠岳はその麓まで車で乗り入れられるようになっており、観光で立ち寄った際に気軽に登ってみてみてね的な佇まいの山でもある。しかし、そんな頂上にだけ登っても何かものたりないし何の運動にもならんだろうと、いつも訪れてはウロウロしている牧場から出発することにした。
山田牧場を登っている人など他に確認できない。コースみたいなものがあるかどうかすらわからないので、とりあえず開けた牧場を登り、牧場がとぎれた所から車が走る道路沿いを行くことにした。この道路は冬場はスキー場の中の林間コースとなっている道路だ。いつもスキーで滑り降りている一面雪のコースだった所を歩くというのも不思議な感じでいい。リフトから降りた所から見下ろす、人間が豆粒のように見えるジオラマのような風景もとても新鮮だ。冬も夏もかわいい。
舗装道路をしばらく登ったが、向こうに見える笠岳はいつまでたっても近づいてこない。単調だしどのくらいで着くかも見当がつかず、次第に飽きてきてダラダラとし出すのであった。
途中、道の脇に咲いた花にへばりついているかわいい昆虫を見つけ、足を止めてそれを撮ろうと夢中になっていた。撮った撮ったと振り向いたと同時に、ザザザッと獣的な音がして大きい何者かがそこにヌオーッと出てきた。思わず普通に身構えてしまったのだが、それは上半身裸で作業ズボンに蛍光色の入ったマジックテープのズック靴姿のおじさんだった。でえええ!?猛獣ではなかったが、別の意味でもっと怖い。
おじさんは普通に我らを追い抜いて行った。びっくした~。
あのおじさんはいったいなんなんだ‥‥でもとりあえず頑張ろう。そしてようやく問題の笠岳の麓に到着した。それほど大きい山ではないが相当きつそうな斜面だ。階段もしっかり作られているのでポッと来てポッと登るような雰囲気もあるけれど‥‥。
斜面はきつかった。気軽な佇まいに、犬をだっこしたロングスカートにサンダル履きのおばちゃんも登っていたが、果たしてこの人達は頂上まで行けるのだろうかという感じだ。口の中が血の味がしてきた。体力の限界を感じながらも異様に急な階段を登って行くと、階段がとぎれて岩場となった。頂上は近い。
岩場にはいきなり鎖が垂れ下がっていた。初めて見たぜ、鎖。登山のムードがムンムンしてくる。ドキドキするぜ。これを伝って行くと楽だよ、という意味だな。でもこんな岩場でこの鎖に命を預けていいのか?もし抜けたらどうすんだ?どうする?どうする?とモジモジしていたら、ランニングのおじさんがその鎖を巧みに利用して降りてきた。ああやって使うんだ‥‥。ていうかさっきの裸のおじさんだ。そして「けっこうきついよねー」みたいな感じで一言二言言葉を交わして去って行った。普通の人だった。でも鎖はちょっぴり恥ずかしいので使わずに、岩にへばりついて這うように登っていった。
頂上は相当怖かった。立ち上がるのが怖い。突風が吹いたら一発だよ。写真を撮るのもどうでもいいや。
そして岩と岩の隙間にガッチリはまるスペースを見つけて弁当を広げた。崖っぷちの眺望での弁当はスリルと達成感が相まって、なんともいえなく旨かった。
素敵なランチを終えてさて下山しようと出発したら、後から登ってきた登山慣れしたような年輩のおじさんおばさんグループが弁当を広げんとしていた。酒やビールもあった。やっぱここは気軽に来るような山なのか。
軽快に笠岳を下る。登山者としてちょっぴり成長したみたい。かなり腰はひけていたが下山では鎖プレイも体験してみた。
笠岳を制覇したことで気が大きくなっていた私たちは、帰りは道路ではなく「登山道」と矢印が立てられた藪に入って行くことにした。道はしっかりあるのでそこを行けばいいのだが、志賀高原などと違い、行けども行けども誰にも会わない。これはかなり怖い。バッタリ熊などに出会ったら大変なことになるだろう。微妙に小動物的な糞も落ちてるしな‥‥。私はつまずいた時などの叫びを必要以上に大きくし、夫は常に何かしゃべり続け、自分たちの存在を熊にアピールした。人がいないのをいいことに内容はかなりくだらなかった。
そして熊に出会うこともなく、無事見慣れた牧場に帰って来られた。
笠岳は、気軽に死にそうな思いをしながら登れて、ちょっと怖くて弁当を食べる良いところがあるいい山だ。